昭和45年5月19日 夜
神様は私共に、信心しておかげを受けてくれよという願いをお持ちになっておられますけれども、なかなかご縁がなからなければその神様の働きと私共の願いとが交流することろ得ません。ね。いかに神様が助けたいと申しましても、手を差し伸べてござっても、その手にすがろうということにならなければ、そのほんとの神様の働きも現しなさる事も出来ません。そこでまあ、縁ができますところから神様の事が分かり、そして神様がおかげを下さろうと手を差し伸べてござるなという事を、まあ色々な場合に私共実感するわけですけれどもね。
今日も、日田の綾部さんっていうこの丸亀って言う大きなお酒屋さんですけれど、あちらの奥さんが御礼参拝して見えました。そうこうしておるうちに、あの日田のきざんていの大奥さんが参って来ておると言うので、私接間でいろいろお話さしてもらいよりましたから、ならこちらへ一緒にと言うて、そこで同じまあ町内というわけではないでしょうけれども大変懇意しておられる日田の方達が3人丁度高柴さんも合わしてでしたから、あそこで合うことが出来られまして。
ああ、毎日でも参りよるならいいけどめったにお参りもせんのにここで日田のもんが3人も集まったと言うてまあ話した事ですけど。そういう中にですね、神様の何か知らんあの、助けずにはおかんと、なるほど神様のお引き合わせだなと、3人の者が実感されただろうと思うです。ね。そういう神様の働きだなというようにそれを感じるという事が、すでにもう神様との言わば交流と言うかね、そういう神様の働きの場が氏子の上に出来るわけです。
ですから、私共の信心さして頂いても、そういう事をいろいろ感じます。その中に、先日からあちらの、まだ御信心をなさいましてから一年あまりですけれども、まあ大変いろいろ広大なおかげを受けられましてですね、あちらの大工さん、ここのお宮を作った大工さんです。あの御神殿の方を作った。あちらの大工さんに、竹野さんって言うやっぱ日田の方ですから、その方にお願いして、見事なお神様をお祝いする事が出来られましてね。
その、遷座のお祭り。言わばここのお神様があちらへ日田の方へ移られるというお祭りが、この16日の日にございましたんです。まあ、その時の事でございますけれども。私がもうどこへ参りよるでもステッキを外さんのですよね。足がちょっと弱いですから。ところがその日に限って私はステッキを持っていかなかったんです。もうお祭りもすんで、御直会を頂き終わって帰ろうという時に、今日はステッキを忘れてきてと言っとりましたら、そんならあの、御主人亡くなっておられますが、主人のこのステッキがございますのでこれを突いてお帰り下さいとこう言うわけです。
けれどもこれは、その鼈甲の、私は生の見た、初めて見たんですれども、もう全部が鼈甲で出来てるんですよね。あの、脇殿のかさだらんところにこう差してございますから、ごらんなさいませ、そりゃ見事なステッキです。例えば、小さいくし一本買いましても何千円いたしますよね。本鼈甲は。ですからそれがステッキ一本が全部鼈甲ですから、まあ金額にするならそうとうなことだろうとこう思うです。
まあたいへんな、まあ物持ちでもありますもんですから、先生このステッキの正面のところに、あちらの御主人の名前が掘り込んであるわけです。ですからそこんところをですね、金で巻かせて頂きましょうとこう言うわけです。それでまあ今日はどうぞとりあえずこれを突いてお帰り下さい。そして、私がまたここんとこを金で巻かせていただきますからと言うて、あの、頂いてまいりましたんですね。
まあ、私が杖を忘れたという事も神乍。貰おうと思うて私が忘れたわけじゃないんですけれどもね。向こうとしても、名前があるから差し上げられないとこ言うて。けども私が使う事になればその名前のところをこう金で巻いたら又見事になるだろうとこういうわけなんです。そしてその晩、その杖のお供えを頂いたことを神様にお届けさして頂きよりましたらね、私が突いて回るところにね、ついて回るところに御霊もついて回るという意味の事を頂きました。あらー、これは大変な事だなと。
これは、例えばこの名前を削らんじゃないなあと。この名前の付いておるままを私が何処へ行くにもこの杖を突いて回るところに、その御霊はその杖に言うならすがってですね、助かりを求めてくるだろう。これは、人間の世界も御霊様のいわゆる仏様の世界も同じです。助かっておる御霊、助かってない御霊、ね、それが助かっておってもより助かりたいのが人情であるように、御霊様だって同じ事。ね。
そういう例えば、んなら、そこから感じられる事はですね、いかに神様が、綾部さんのとこの御霊様を助けたいという手を差し伸べてござるかといったようなものを感ずるでしょうが。ああ、人間の考えって浅はかだな、私もここに名前が付いておったんじゃいけんから金で巻いてもらって、しかしそんな贅沢な事はせんでいいから私は、あの、ランタン式ところへ知ったところがありますから、あそこを漆でこうやって塗ってもらったらまあいいだろうと。そして私が使わしてもらおうと思うとったけど、そんなだんじゃない。そこに御霊の助かる場というものがです出来た。
例えば、綾部さんのところの丸亀というお酒屋さんのところに縁が出来たら、いわゆるその、根にあるとこの御先祖の御霊様の上にまで縁が出来た。それはどういうことかというと、今私がステッキを忘れた、んなら帰りにこれを突いてお帰り下さい。そういうようなまあなんとも言えん神様の演出とも申しましょうか。神様がなんかね、そのこう御霊の上に手を差し伸べてござるようなものを感ずるでしょうが。ね。
そして、その晩、きのうお供え頂いたことを神様にお届け頂いて、勿論、私は、あのその名前のところを消してもらうなり、まあ金で巻かんでも、まああの、漆で塗るなりしようと思うとったけれども、そんなだんじゃない。これは、例えば私が一生この杖を突かせて頂いて、ね、その突かして頂く都度に御霊の助かりと言うものを私が祈らせてもらう、感じさせてもらう。これは、んなら、私のそのステッキをまた、んなら、誰かがそれを譲り受けるでしょう。まあ私の長男なら長男がそれを受けるとしましょうか。
すると、永後御霊様の助かられる縁というものがいよいよ濃いく深くなっていくということを感じます。ですからね、お互い、今日例えば、合楽会で、初めてあちらの部落の方がお参りになっとられますけれども、さあ、ほんとに側にお神様がきてござるからお参りしたい、お参りしたいとはいつも思うておりますけれども、なかなかご縁がなかったと。ところが、近所にあの、( さんあたりやら、んなああー、 )お参りになられます、そして、お参りをされながらです、ね、何とはなしに有り難うなっていかれる姿をやっぱ見られるんです。
信心っちゃ有り難いもんだろうなあと、信心っちゃあなるほど有難いだろうな。どうも生き生きとして喜々としてお参りを楽しんで参っておられる姿に触れられる時にです、こりゃどうでも、よし私もいっちょ連れて参って下さいと言ったような事に今晩はなられたんだろうと私は思うんですけれども。そういうところにもです、私、神様の手をこう差し伸べておられるものを感じます。
ですから、その差し伸べられておる手にこちらがすがっていかなければできません。ね。神の綱が切れたと言うが神からは切らぬ、氏子から切るなとおうせられます。ね。ですから私共が、すがる、金光様の信心しよるけん良かこつばっかりってけしてそんなことじゃないです。けれどもね、金光様の信心さしていただきよると、いつの間にか、何とはなしにねあれもおかげ、これもおかげと思わして頂けれるおかげが自分の周辺に感じる事が出来るようになってくる。
昨日、久保山さんのお届けじゃないですけども、先生もう一生懸命、畑なら畑の御用をさして頂いとります。親先生、親神様と言うて心に念じながら畑をさしていただきよりますとね、もうほんとに、そりゃうれしい、どっから湧いてくるか分からんごとある有り難いものが湧いてまいりまして、もう仕事のはかいく事、はかいく事。もう楽しゅうてたまらん中に、仕事が出来るとこういうふうな御届けをしておられますけどね。
嘘じゃない。事実だと私は思います。ね。ですから、そういう例えば、信心というのは、それが自分自身の心が生き生きとして助かってくる。自分自身の心が救われてくる。そこに有り難い勿体無いという心が湧いてくる。その有り難いという心におかげはあるんだということです。願ったからすがったから、拝んでもろうたから。なるほどそれもおかげを頂きましょうけれども、本当の助かり、本当のおかげというものは自分自身の心が助かる。
その助かった受けものとしておかげが頂けていけれるところに、神も助かり氏子も助かって下さるというような私は、より合楽的なおかげですよね。合楽とは、合い共々に極楽な思いをするということなんでしょう。ね。私共だけが助かったというのじゃない、神様だけが助かったというのじゃない。私共がそういう心の喜びを感じさして頂き、分からしてもらうようになって、その喜びの心におかげがある。それをおかげは和賀心にあり、和らぎ賀こぶ心にあるとおうせられます。そういう和らぎ賀こぶ心が、日々育って行く。だから楽しくて答えんということになってくるんじゃないでしょうか。
そういう例えば、縁がいよいよ有り難い縁となってまいりました時にです、神様がお喜び下さる。神様が安心して下さるおかげ、そこに私共、日々をです、安心して今日、綾部さんがきざんていの女将さんに話しておられます。まあだ私は、ここにお参りさして頂くようになってまだわずかですけれども、ああしてお神様を拝むようにならして頂いて、まあこれが一つ、大分県中に例えば、日田は大分県の入口ですから、これからひとつどうでも大分県中にです、この有り難い神様のご縁が広がっていかなきゃならんと思いよります。
家はもう随分お得意様がありますし、もうほんとにこの有り難い神様、とにかくですね、おばしゃま、とにかく本気で金光様の信心さして頂いて、親先生のおっしゃるとおりしとくとですね、もういっちょん心配がいりません。もう今までは娘が年をとりすぎたと言うちゃ心配をし、ね、大きな取引があると言やあ不安でたまらない。というようなことでございましたけれども、お取り次ぎを頂いて御願いをしたが最後、不思議に安心が出来ます。もうこれだけでも、おばしゃま大変なおかげですよと言うてからね、日田言葉でその、今日新しゅうお参り、きざんていの女将さんにその事しきりに話す。
これ( )こげなんことの。実は難儀なある問題ですけれどもね、こげなんことでも安心が出来るでしょうか。出来ます。私を見てくださいと言うてその、綾部さんがその、まあ御近所の方同士が丁度今日ここで一緒になられましたから、そういう話をなさっておられましたがね。一人が助かる、ほんとに助かるという事が、ね、一人がおかげを受けたが為に千人も万人もおかげを受けるようになるとおうせられます。人の手本になるような信心をせよとおっしゃる。人の手本になるような信心とは、私自身がいよいよ有り難うなり、私自身がいよいよ、ね、おかげをこう受けていく事だと思うです。
そこには、千人も万人もの者が助かってくる。一粒万倍のおかげが受けられるようになる。そういうおかげを神様がもういよいよこよなく喜んで下さる。神様が喜んで下さる。私共も喜べる。神と氏子とが喜び合えるという生活。それが金光様でいう信心生活。私共だけがおかげ頂いて嬉しいと言うのじゃなくて神も喜び氏子も喜べれるというとこ。そこにね、親の事は子が願え、子の事は親が願え、頼み合いいたせ。氏子あっての神、神あっての氏子あいよかけよで立ち行くという。いわゆる金光教の信心の独特とでも申しましょうかね。
神も助かり氏子も立ち行く道が開けて来るのです。そこに楽しい楽しい信心生活があると思うですね。そういう例えばおかげを頂いて行きたいという事の為に神様がね手を差し伸べておって下さる。皆氏子の上に。それを気がつかないである。ね。神様が氏子信心しておかげを受けてくれよと言うておられる。そこにだから、お導きを受けて縁が出来るといったようなことは考えてみても大変なそれまでには神様の働きがあっておることを私は信じますですね。どうぞ。